ISO感度のオールナイトニッポン

ISO感度のだましうち!

ISO感度がビッグシティ東京で感じた事を語り、紡ぎ、一本の糸にし、それでセーターを編んでいくポカポカブログ!

「生きてる心地」 DJ松永

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(世界大会までの)一ヶ月間がむちゃくちゃ生きてる心地がした

今までで一番

 2021/1/1 NST新潟総合テレビ「Dreaming 今 夢に向かって」DJ松永のインタビューより。

 

DJ松永のDMCタイトル獲得にかかる苦悩の話はCreepy Nutsファンならば知っている人も多いだろう。

日本一の称号を持つR-指定との比較に常に悩まされ、DMC日本一を目指すもいつもあと一歩で届かない。「出るも地獄引くも地獄」だと語っていた。

そして、「これが最後」と決めて挑んだ2019年の大会。遂に悲願だったDMC日本一を達成する。

松永にとって到達目標は日本一であり、世界大会は考えてすらいない舞台だったという。

DMCは松永にとって呪いであり、鎖だった。

しかし、世界大会に向けて費やす時間が「今までで一番」「生きてる心地がした」時間だったというのだ。

 

「生きてる心地」というのは不思議なものだ。

 

自分が「生きてる心地」を感じられてる瞬間なんてあるだろうかと思い返してみた。

振り返ってみれば、「生きてる心地」を感じていたのは、ほとんどが大変だった時のように思う。本当に忙しすぎて寿命を削っているというような時間。

逆に、楽をしていた時、快適な生活を送っていた時は「生きてる心地」はしなかった。むしろ「死」に近づく感覚だ。「このまま漫然と時間だけが過ぎていく。このままでいいのか」と、常にどこかに焦燥や葛藤がある。でも動きたくない。面倒くさい。こんな自分が嫌になる。そうして無情に時は過ぎる(おおよそ2020年はこんな感じだった)。生きながら死んでいる感覚だ。

非常に逆説的だが、命を削って何かに取り組むことでしか「生きてる心地」は得られない。それが退路を断たれた状況なら尚更なのだろう。

 

今の自分に投影して考える。国家試験は苦しい。量は過剰に多いし期限もそこまで迫っている。倍率は20倍。周囲の期待も当然感じる。背負うものは多い。

でも、苦しい状況を突破するプロセスにこそ喜びがあり、生きてる心地がある。やってる最中はそんなこと感じる余裕はないが、不思議なものであとから振り返ると必ずそう思うものだ。

 

無冠の帝王じゃ終われへん

成し遂げてから死ななアカン

やたらヤバめ発汗作用

ナイトフライト夜間飛行

ブッ倒れて急患で運ばれるほど

振り絞ってこそ得られる生きてる実感

客がパンパンでもスカスカでもブチカマスだけ

「板の上の魔物」-Creepy Nuts

 

 

Creepy Nutsの武道館に行ったあとに書いた記事もありますのでこちらも是非どうぞ。

onearth618.hatenablog.jp

 

ついでにこちらも。

onearth618.hatenablog.jp

 

そもそも

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国家試験の勉強をしているが、時々目の前の物量に圧倒される時がある。

与えられた残り時間に対して、明らかに量的過剰。こんなの完成する「はずがない」。

 

多くの試験モノに言えることなのだろうが、試験というのは問われる知識量は無限ではなく有限だ。しかし、そもそも全てを終わらせることは不可能であり、また、期待もされていない。

必要なのは、かっこよく言えば「選択と集中」、ダサく言えば「妥協と諦め」である。しかし、それが試験における本質だと思う。如何に切り捨てるか、諦めるか。

 

これはあらゆることに通用することなのであろう。試験の先にある仕事でもそうだし、創作においても当てはまる。

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『映像研には手を出すな!』の浅草氏のこの言葉に全てがつまっている。

魂を込めた妥協と諦めの結石。

ずとまよは「人格を持った初音ミク」だ

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これからする話は、既にどこかで誰かに言われていることだろうし、かなり擦られた話なんだろうけど、自分で感じたときの感慨が大きかったので書く。

最近よく、ずっと真夜中でいいのにの曲を聴いている。

曲の感じとかMVの感じとかが、ボカロど真ん中世代の自分(中学の頃はカゲプロにKemuにNero、ハチの話で同級生と日々盛り上がっていた)にとってはぶっ刺さりで、あの頃の気持ちを思い出しながら聴いている節もある。

この前NHKのSONGSにずとまよが出ていて話していたのだが、ずとまよはボーカルのACAね以外特定の形を持たないバンドらしい。つまり、曲ごとにバンドメンバーが違うのだ。

これって、まんま初音ミクじゃないか。

初音ミク」という軸があって、その曲を作る人、楽器を演奏する人、MVを作る人は曲ごとにバラバラ。

そして、ACAね自体も無機的というか、私を出さないようなコンセプトでやっているところもあり、そこも初音ミクと重なる。

そういう意味で、ずとまよは「人格を持った初音ミク」だと感じた。

僕ら中二病陰キャの青春を支えたボカロの役割を、今はずとまよが担っているんじゃないだろうか。

 

もう少し広げて話すと、昔は「曲はできたけど歌ってくれる人がいない。そうだ、初音ミクに歌わせよう」という発想で、初音ミク、ボカロが広がったんだと思ってる。しかし今は、SNSや動画メディアが発達したことから、より簡単に作り手が歌い手にコンタクトが取れるようになり、初音ミクを使うまでもなく生の声でその音楽を世間に届けられるようになったのではないかと思う。最近ブレイクしてるyamaなんかは、まさにそんな感じで生まれたアーティストだ(ソースは報道ステーションのインタビュー)。

YOASOBIもそうだよな。ボカロPのAyase含むチームYOASOBI(?)が、SNSでikuraを見つけてユニットを組んだみたいな経緯だったはず。

 

今のJ-POPシーンって、かつてアングラ、ヲタクの所有物だったボカロ文化が表に出てきて、シーンを丸ごと食い尽くしたみたいなところがあって(米津玄師、YOASOBI、云々)、ボカロって本当に日本の歴史を変えたよなぁって思う。

それとも単に、ボカロを聴いて育った層が時の経過でお金を持つようになって(かつて中学の時にカゲロウデイズを聴いていた自分も今じゃ大学3年生、21歳だ)、消費が顕在化するようになったというだけの話なのだろうか…?

しかし実際、自分の母も「YOASOBIいいね」「米津玄師いいね」と言っているわけであって、全世代に受け入れられているからJ-POPなわけである。それは数年前であれば考えられない事態だった。

 本当に、ここが日本の音楽の転換点になるんじゃないか。インターネット音楽以前と以後で、シーンって本当に全く違うものになってると思う。

あとそうそう、TikTokね。TikTokでバズった曲がヒットチャートに載るという法則ができているということは、全ては神(=TikTokのレコメンド)のみぞ知る世界になりつつあるということか。これが本当の「AIによる人間の支配」なのかもしれない…(関暁夫みたいな締め方になっちゃった。)

可能世界

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刑法を勉強していると、可能世界という言葉が出てきた。

もともとは哲学畑の用語らしいのだが、刑法にこの概念を使うと話がすっきりまとまるということで刑法の指導教官が使っていた。

ざっくりいうと、「現実世界ではない、しかしあり得た世界」という意味らしい。

哲学では、ライプニッツが提唱した概念だそうだ。

 

……なんだか中二病感満載の単語なので気に入った。ちょっとググったら(やっぱり)ボカロ曲がヒットした。

音楽を作りました。

soundcloud.com

 

最近Ableton Live10を購入しまして、ウキウキで楽曲制作をしております。

さて、こちらはAbletonで最初に作ったオリジナル曲「cave」。昨日作ったばっかりです!

曲名は完全に後付けなのですが、洞窟にいるような感じだなぁと思ったのでそう名付けました。

ジャンルはいわゆるLo-Fi Hip Hopですね。

少し曲について解説(というのもおこがましいな)しますと、冒頭の話し声は三島由紀夫のインタビューからサンプリングしました。英語の素材にしようか迷ったんですが、英語素材で良いものが思い浮かばなかったのでこっちにしました。

それ以外の素材は全てAbleton付属のPackの音源を使ってます。

音抜きでSEを入れる手法は、Green Assassin Dollerさんがよくやっているのを真似しました。

open.spotify.com

ジャケットの洞窟の写真はフリー素材です(笑)

もともと自分の「音楽作りたい!」という原点が舐達麻やLo-Fi Hip Hopにあるので、まさに作りたかったジャンルです。

昨日のお昼ごろから作り始めて夜には完成したので、1日クオリティではあります…

作ってるときはなんかいい感じ!と思っていても、サンクラにアップされたものを改めて客目線で聴いてみると「あれ?作ってたときより素っ気ないな」と思いましたね。

とりあえずいっぱい作っていっぱいAbletonに触ることが上達の近道だ!と思いますので、クオリティはさておきどんどんリリースしていきたいと思います。

次はメロディアスでちょっと懐かしい感じの曲が作りたいなぁ。

ちなみに、アーティスト名が「UnderCurrent」となっていますが、これは自分が音楽を作るときの名義としてこれから使っていこうと思っている名前です。

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名前はBill Evansのアルバム名から拝借しました。「目には見えない流れ」という意味らしいです。

 

【法的に検証してみた】仕事中に「やる気がないなら帰れ!」と言われて本当に帰った場合、その時間分の給料はもらえる?

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最近はめっきり少なくなったと思いますが、昔の体育会系の人にはいまだに怒り文句として「帰れ!」と怒鳴る人がいらっしゃいます。

自分が小学校の時地域のサッカークラブでサッカーをやっていた時も、厳しいコーチなんかが「お前もういいよ、帰れよ」と怒り、「帰りません!まだやらせて下さい!」と懇願するというのが一種の様式美でした。

今考えたら小学生相手に優越的地位を振りかざして絶対気持ちよくなってたんだろうなぁ、キメェなぁと思います。

 

少年サッカーならまだ「そんなこともあったなぁ」で済むんですが、これがお金の発生する仕事だったらどうでしょうか。

我々若い世代などは、体育会系を経験してない人なんかは「帰れ!」「帰りません!」という様式美(というよりもはやコント笑)が通じない人も多いと思います。本当に帰っちゃう人もいると思います。

じゃあ、仕事で上司から「やる気がないなら帰れ!」と言われて本当に帰った場合、その時間分の給料、つまりその日に本来働くはずだった残りの時間分の給料は請求できるんでしょうか。法的に検討したいと思います。(免責事項: 当方あくまで法律勉強中の身ですので、内容には間違い等入っている可能性があります。許してね)

 

結論から言いますと、請求できます

民法536条2項には、

債権者の責めに帰すべき事由によって債務を履行することができなくなった時は、債権者は、反対給付の履行を拒むことができない。

 

とあります。民法の世界では危険負担と呼ばれるものです。

労働とは、労働者が使用者(会社など)に対して労務を提供し、それに対して使用者が報酬を与えるという一種の契約です。そして、債権者=使用者、債務者=労働者という関係になります。

 

まず、「債権者の責めに帰すべき事由によって」とは、「使用者に落ち度があるような理由によって」ということです。

ここではまさに、使用者、つまり上司から「やる気がないなら帰れ」と言われたこと、つまり使用者による正当な理由のない労務受領拒否によって就労不能となることです。「やる気がない奴が労働することなどワシは認めん」というのは到底正当な理由とは言えませんから、当然に使用者に帰責事由が認められます。

 

次に、「債務を履行することができなくなった時は」とありますが、これはまさに、労務を提供することが不能になってしまった場合です。

「工場が燃えて働けなくなった」といった物理的な履行不能から、「上司に帰れと言われた」と言った社会通念上の履行不能でも認められます。

 

そして、「債権者は、反対給付の履行を拒むことができない」とあります。労働者は使用者(=債権者)のせいで働けなくなっているのだから、反対給付、つまり労働の対価としての給料をもらう権利があるということです。

 

 

というわけで、仕事で上司に「やる気がないなら帰れ!」と言われた場合、素直に帰りましょう上司の正当事由のない命令によって労務提供が不可能になっているのですから、反対給付であるお給料は働かずとも入ってきます

さらに、「やる気がないなら二度と会社に来るな!」と言われた場合には最高です。正当事由の無い無期限自宅待機を命じられたことになり、あなたは二度と会社に行かなくても給料をもらえることになります。

しかも、この状態を解消して欲しければ、上司や会社が「あれは間違っていた。もう一度会社に来てくれないか」とあなたに頭を下げなければいけません。これは気持ちよくてたまらないでしょう。すかさず訴訟して、休んでいた間の給料と精神的ダメージを受けた分の損害賠償をせしめ取りましょう(ただし、会社から恨まれて呪われる可能性あり。要検証)。

 

それでは皆さんも、上司のパワハラに負けず、時には訴訟もちらつかせて、強く生きていきましょう。

科挙合格者の弊害

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中国では、王朝から科挙が実施されており、その競争は熾烈を極めた。科挙に及第することは、歴代中華帝国において低い出自から国務大臣級の地位を手にするほぼ唯一の手段だからである。受験者たちは、幼少の頃から科挙の試験科目(四書五経の暗記、詩作や歴史など)を頭に詰め込んだ。及第して官僚になった者たちは、科挙の試験科目に凝り固まって特権意識を振りかざし、民衆の生活に関わる事柄を軽んじた。これは歴代王朝において何度も問題になった。  

 

ja.wikipedia.org

 

なんかすごい寓話的な話だな笑 今の官僚にも言ってもぶっ刺さりそう笑