ずとまよは「人格を持った初音ミク」だ
これからする話は、既にどこかで誰かに言われていることだろうし、かなり擦られた話なんだろうけど、自分で感じたときの感慨が大きかったので書く。
最近よく、ずっと真夜中でいいのにの曲を聴いている。
曲の感じとかMVの感じとかが、ボカロど真ん中世代の自分(中学の頃はカゲプロにKemuにNero、ハチの話で同級生と日々盛り上がっていた)にとってはぶっ刺さりで、あの頃の気持ちを思い出しながら聴いている節もある。
この前NHKのSONGSにずとまよが出ていて話していたのだが、ずとまよはボーカルのACAね以外特定の形を持たないバンドらしい。つまり、曲ごとにバンドメンバーが違うのだ。
これって、まんま初音ミクじゃないか。
「初音ミク」という軸があって、その曲を作る人、楽器を演奏する人、MVを作る人は曲ごとにバラバラ。
そして、ACAね自体も無機的というか、私を出さないようなコンセプトでやっているところもあり、そこも初音ミクと重なる。
そういう意味で、ずとまよは「人格を持った初音ミク」だと感じた。
僕ら中二病陰キャの青春を支えたボカロの役割を、今はずとまよが担っているんじゃないだろうか。
もう少し広げて話すと、昔は「曲はできたけど歌ってくれる人がいない。そうだ、初音ミクに歌わせよう」という発想で、初音ミク、ボカロが広がったんだと思ってる。しかし今は、SNSや動画メディアが発達したことから、より簡単に作り手が歌い手にコンタクトが取れるようになり、初音ミクを使うまでもなく生の声でその音楽を世間に届けられるようになったのではないかと思う。最近ブレイクしてるyamaなんかは、まさにそんな感じで生まれたアーティストだ(ソースは報道ステーションのインタビュー)。
YOASOBIもそうだよな。ボカロPのAyase含むチームYOASOBI(?)が、SNSでikuraを見つけてユニットを組んだみたいな経緯だったはず。
今のJ-POPシーンって、かつてアングラ、ヲタクの所有物だったボカロ文化が表に出てきて、シーンを丸ごと食い尽くしたみたいなところがあって(米津玄師、YOASOBI、云々)、ボカロって本当に日本の歴史を変えたよなぁって思う。
それとも単に、ボカロを聴いて育った層が時の経過でお金を持つようになって(かつて中学の時にカゲロウデイズを聴いていた自分も今じゃ大学3年生、21歳だ)、消費が顕在化するようになったというだけの話なのだろうか…?
しかし実際、自分の母も「YOASOBIいいね」「米津玄師いいね」と言っているわけであって、全世代に受け入れられているからJ-POPなわけである。それは数年前であれば考えられない事態だった。
本当に、ここが日本の音楽の転換点になるんじゃないか。インターネット音楽以前と以後で、シーンって本当に全く違うものになってると思う。
あとそうそう、TikTokね。TikTokでバズった曲がヒットチャートに載るという法則ができているということは、全ては神(=TikTokのレコメンド)のみぞ知る世界になりつつあるということか。これが本当の「AIによる人間の支配」なのかもしれない…(関暁夫みたいな締め方になっちゃった。)