【後編】UT-virtualが100億円の負債を背負い崩壊するとどうなるか、法的に検証してみた
この記事はUT-virtual Advent Calendar 2020の1日目の記事として作成しました。
後編です。前編はこちら
おさらい
さてさて、前編を読んでくださった皆さん、本当にあるかもしれない怖い話、いかがだったでしょうか。
今回の事案の問はこちらでした。
この100億円の負債は、誰が負担すれば良いでしょう?
今回の登場人物は、UT-yitual(ゆーてぃー やーちゃる)という架空の団体、代表、部員、goggle(ゴーグル)、そして銀行でした。
このうち、誰が負担しなければいけないか。
結論
結論から言いましょう。結局誰が負担しなければならないか。
これは、
お金を貸した銀行側が負担しなければなりません。
つまり、銀行側の泣き寝入りです。
「えー借りたUT-yirtualが負担するんじゃないの?」
「そんなの銀行の貸し損じゃん。銀行は悪くないのに!」
「契約した代表が負担するのでは?」
「いやいや部員全員で負担でしょ」
「ここは大企業goggle(ゴーグル)が」
様々な声が聞こえてきます。
なぜこういった結論になるのか。
その謎を解く鍵は、権利能力なき社団にあります。
聞き慣れない言葉が出てきましたが、できるだけわかりやすく解説していきます。
それでは見ていきましょう。
権利能力なき社団
権利能力なき社団とは
権利能力なき社団とはなんでしょうか。このように定義されています。
実質的には法人格のある団体と同じような活動をしているが、法人とはなっていない団体
社団とは、一定の目的をもって集結した人の集団、ぐらいの意味です。
法人とは、私達のような自然人以外のもので、法律上、権利・義務の主体たり得るものを言います。
要は
- 会社のように、法律の手続きを踏んで「法人」となっている団体(=社団)に対し
- そういう手続きは踏んでないけど会社のように振る舞っている団体(=社団)を
- 権利能力なき社団
と呼んでいます。具体的には、大学のサークルやPTAなどが当てはまります。
会社など「法人」には、会社の名前で土地を借りたりお金を借りたりする権利能力がある。
それに対して、大学のサークルやPTAは団体の名前でそういうことをする権利能力がない。
それゆえに、権利能力なき社団と呼ばれているわけです。
じゃあ、権利能力なき社団は権利能力を得るために法人になれば良いじゃないか。
そうなんです。法律の手続きを経て法人になれば良いんです。しかし人間そうはいかない。
法人っぽい活動をしている。でも、法人化は面倒くさい(膨大な手続書類)。お金もかかる(15万ぐらい)。だったら別に法人なんかならなくて良いや。そういった宙ぶらりんな団体が存在する。それをまさに、権利能力なき社団と言うのです。
cf. 少し横道にそれた話をします。読み飛ばしても大丈夫です。
今回の事例では代表がUT-yirtualの名前を使ってお金を借りています。これは本来、権利能力なき社団のUT-yitualではなし得ないことと考えられますね。しかし、法学の世界では、「権利能力なき社団について、その活動を容易にし、また取引の相手方を保護するという観点から、その活動の実態に即して、なるべく権利能力の主体と扱ったほうが良い」と解釈されています。
今回の事例では、この解釈に則って、銀行がUT-yitualを一般法人とみなして取引を行ったと考えてください。本稿ではこの点について深入りすると本筋から逸れてしまうので、これ以上の議論は割愛させていただきます。
権利能力なき社団の成立要件
では、具体的にどういった要件を満たせば権利能力なき社団になるのでしょうか。判例は次の4つを要件としています。
1. 団体としての組織を備えていること
2. 多数決の原則が行われていること
3. 構成員の変更にもかかわらず団体そのものが存続すること
4. 代表の方法、総会の運営、財産の管理その他団体としての主要な点が確定していること(以上、最判昭39.10.15 百選Ⅰ(第8版)[8])
ちゃんと運営している大学のサークルであれば大抵この要件を満たします。
よって、UT-yirtualは権利能力なき社団と言えます。
UT-yirtualの財産は誰のもの?
UT-yirtualが権利能力なき社団ということはわかりました。
次に、UT-yirtualのお金や機材などの財産は誰のものなのでしょうか。
結論から言うと、これはみんなで共同所有している状態、法律用語でいうと総有という状態になります。
会社のように「法人」であれば、「会社の金」「会社の機材」というように、所有権など諸々の権利・義務を会社=法人に帰属させることが出来ます。
また、会社をやめるときに「これは俺が使ってたデスクだから俺が貰って行くね」というように、構成員が会社の財産について自分の持分を主張することは当然できません。
これに対し、権利能力なき社団は、団体それ自体に法人格が無いので、権利・義務を団体に帰属させることが出来ません。よって、とりあえず 構成員全体のものと建前上定義します。
また、財産は構成員全体のものと定義した一方で、やはり団体のものであるので、団体の財産について「この機材は俺のものね」と自分の持分を主張することは出来ません。
UT-yirtualの場合、口座のお金やVR機材などはみんなで共同所有(=総有)状態になります。
しかし、あくまでサークルのものではあるので、サークルをやめるときに自分の要望で買ってもらえた機材を貰ったり、もうサークルで使わなくなった機材を売って自分の財布を潤したりといったことは出来ません。
UT-yirtualの借金は誰のもの?
団体の財産は総有であることがわかりました。
では逆に、マイナスの財産とも言える、借金などの債務は誰に帰属するのでしょう。今回の事例の核心に迫る部分となります(やっとここまで来ました。これを説明したいがためだけに長々と法律の議論をしてきました。法律ってひとつひとつの議論を積み重ねてやっとお目当ての問題にたどり着けるんですよね…)。
先程見たように、プラスの財産は総有状態で、みんなのものではあるけど特定の個人に帰属するものではありません。
マイナスの財産もこれに準じます。つまり総有状態、みんなのものではあるけど特定の個人には帰属しないのです。
つまり、借金は誰が負担するの?
これは何を意味するか。
そう、
権利能力なき社団については、その団体の借金(=債務)について、 構成員個人はその責任を負わないのです。
だから、UT-yirtualの部員は代表も含め、借金を肩代わりしなくて良いんです。
債権者(ここでいう銀行)は、下図のように、総有財産から回収できる分だけを回収して終わりになります。構成員の個人財産に行くことはできません。
結局、債権者である銀行側が、貸した金を踏み倒されたことになるのです。銀行側の大損で終了。
↑総有債務についての図
この考え方は、条文などに記されているわけでは無く、判例によって形成された考え方、すなわち判例法理となります。
「権利能力なき社団の代表者が社団の名においてした取引上の債務は、その社団の構成員全員に、1個の義務として総有的に帰属するとともに、社団の総有財産だけがその責任財産となり、構成員各自は、取引の相手方に対し、直接には個人的債務ないし責任を負わないと解するのが相当である」。
(最判昭48. 10. 9 百選I(第8版)[9])
この考え方には批判や反対説も少し存在しますが、現状ではこの考え方が通説となっています。
代表者は個人責任を負うか?
こういった考え方が通説となっているぐらいなのですから、権利能力なき社団に安易にお金を貸したりするべきではないというのがよくわかったと思います。
しかし、これでは踏み倒したもん勝ちというか、貸す側にとっては不公平ですよね。
せめて代表者に債務の履行を請求することはできないでしょうか。
通常の場合、先ほどの考え方に則って、もちろん請求することは不可能です。代表とて構成員の一員であり、個人に責任を帰属させることはできません。
しかし、貸す側の自衛手段として、代表者を保証人に取るなどの手法を取ることはできます。
こうすれば、団体から取りはぐれても、保証人に請求を行うことができます。
今回の事例では、銀行マンは完全に代表を信頼し切っていたため、保証人を立てるということをしませんでした。ですので銀行はUT-yirtualの総有財産以上の取り立てを行うことができません。
…そもそも、法人格を持たないという権利義務の所在があやふやな団体にお金を貸すこと自体、いかに危険かということを事前に認識するべきでしたよねぇ…。
結論
以上、権利能力なき社団と今回の事例の関連を見てきました。
ここから言えることは次の通りです。
権利能力なき社団であるUT-yirtualが負った100億円の負債は、
UT-yirtualの構成員が負担することは無く、
銀行はUT-yirtualの総有財産から回収できる分しか貸した金を回収することができない。
その後
今回は、幸いUT-yirtualの部員たちが多額の借金を一生背負っていくという事態は避けられました。一方、銀行側は大損害を受けたことでしょう。代表と契約を交わした銀行マンの首はまだ繋がっているのでしょうか…
しかし、ドライな世界ですが、法律の基本理念は「知らなかった方が悪い」です。今回であれば、権利能力なき社団に金を貸すと回収が不可能になることを知らなかった銀行マンが悪いです(まぁ、ビジネスで利益を上げられなかったUT-yirtualが一番悪いといえば悪いですけどw)。保証人をつけなかったのも最悪ですね。そうしておけばせめて自分の首は飛ばさずに済んだでしょうに…
基本的に法の不知の主張、「知らなかったから許してくれよ」は認められません。でないと、法律を勉強した人ほど不利になっちゃいますからね。法律の世界はまさに「知は力」なのです。
また、UT-yirtualはサークル自体の存続は不可能でしょう。何をしようにもまず100億円の借金を支払うところから始まりますから。機材なども差し押さえられて借金返済に充てられたことでしょう。
しかし、また新たなサークルを作り、そこに構成員が全員移れば良いんです。そうすれば心機一転、機材は無いですが借金も無い状態からまたスタートできます。次は、UT-nirtual(ゆーてぃー にゃーちゃる)なんてどうでしょうか……
おわりに
いかがだったでしょうか?大学サークルが100億の負債を背負い崩壊するとどうなるか、法的に検証してみました。
これでUT-virtualが100億の負債を背負ったとしても法的処理だけは完璧ですね!
以上!ISO感度でした〜!これからのUT-virtual Advent Calender 2020もお楽しみに!
【前編】UT-virtualが100億円の負債を背負い崩壊するとどうなるか、法的に検証してみた
- はじめに
- 検討する課題
- この記事を読むと得られるメリット
- 事案説明
- ハジマリ
- 学園祭で大博打
- 予算 100億円
- いざ銀行へ
- 学園祭当日
- 100億の負債
- 問.
- 後編へ続く…
この記事はUT-virtual Advent Calendar 2020の1日目の記事として作成しました。
はじめに
1日目から物騒な記事ですみません。
どーも。ISO感度です。現在法学部で3年生をしております。
最近僕は、来年の公務員試験に向けて法律をイチから叩き込み直しています。
大学の授業でも法律は勉強しているはずなのですが、いつもその場凌ぎで単位を必死に取りにいくスタイルでここまで生き延びてきたので、法学的素養を自身の血肉とするには到底及んでいませんでした。典型的ダメ大学生ですね。
しかし、公務員試験に受かるという目標ができた以上、適当に勉強をしたのでは済まされない。
そこで今回は、法律のケース・スタディということも兼ねて、UT-virtualに実際に起こりうる事例を、作り話を題材に(重要)、法的に考えていきたいと思います!Advent Calendarも埋まって自分の勉強にもなるから一石二鳥だね!(なおプログラミングの記事では無い模y)
(免責事項: 当方あくまで法律勉強中の身ですので、内容には間違い等入っている可能性があります。許してね)
続きを読む悪人の不気味な凡庸さ ~裁判傍聴をして~
昨日は昼夜逆転した生活を送ってしまい、深夜はゲームに明け暮れてしまった。進めるべき伊藤塾の授業も進められなかった。最悪な一日だが、凡庸な一日である。
そんな中迎えた今朝だが、前々から行きたかった裁判の傍聴に行くことにした。
裁判の傍聴に行こうと思ったのは、オードリーの若林が売れない下積み時代によく裁判傍聴に行っていたと聞いたのがきっかけだ。「裁判の傍聴は無料で見れるエンタメ。しかもノンフィクションで、演者はすべて実在の人物」と語っていて、確かにそうだなと思ったのだ。裁判というのは当事者にとっては人生を変えてしまうほど非常に大きな出来事である。それを傍から第三者面して眺めることができる。確かに捉え方によっちゃなかなかに刺激のある「エンタメ」だなと思った。しかもお金かかんないし。
加えて、やはり法律を勉強する身としては何かモチベーションが欲しかった。10代のころ、理科の授業は実験をすればその部分の化学反応はすぐ覚えられたし、旅行で行った史跡の話は歴史の事項と絡めて頭に焼き付いている。そんな感じで、やはり法律も、使われている場面を見て初めて勉強の実感、モチベーションが湧くものだと考えていたから、いつかは行きたいなと思っていた。
実際、裁判内で「不当利得返還請求」とか聞いた時には興奮した。(これ、伊藤塾でやったやつだ!)と進研ゼミ以来の感動を覚えた。習っていることが社会で利用されている場面を見て初めて学問の実感は得られるよなぁとしみじみ思った。
しかし、やはりエンタメとしての側面、人間ドラマ模様を見ることが出来たのがとても良い経験になった。結論から言うと、「悪人の不気味な凡庸さ」というものをこの目で観測した。
「悪の凡庸さ」というと、ハンナ=アーレントの概念で、
第二次大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる、という考え方。
『デジタル大辞泉』
という言葉だが、私が言う「凡庸さ」とは、「思考や判断を停止し外的規範に盲従した」という意味ではない。
ここで私のいう「凡庸さ」とは、「普段一般社会に溶け込んで善良な市民のように振舞っているように見えるさま」をいう。
「悪の凡庸さ」というとやはりアーレントの言葉が第一に出てきて、自分の文脈では完全な誤用になってしまうな~と思いながらも、このワードのすわりが自分の考えていることにピタッと当てはまったので、意味は違えどワード自体を使わせていただくことにした。
私が思った「悪人の不気味な凡庸さ」とは、一言でいうと、「悪人は悪人面をしているわけではなく、善良な一般市民としてそこに存在しており、そのことに対する不気味さ、違和感、気持ち悪さ」のことである。
今回自分は、3件の刑事事件を傍聴した。順に、準強制性交、大麻及び覚せい剤取締法違反、強制わいせつである。
1件目の準強制性交は、妻子持ち外資系会社員(身なりも成功者っぽい)が、前の会社の同僚と飲んだ後セックスして、向こうから「同意なく性交された」として訴えられた事件。原告と被告で性的同意に係る主張がまるで食い違っており、次の回で審理されるのであろう。
妻がいて、娘が二人いて、外資系のバリバリビジネスマン。顔もイケメンで、ガタイもいい。最初入廷してきたとき、弁護士3人と一緒にスーツ姿で入ってきたのだが、「あれ?被告人は?」となるぐらい弁護士に溶け込んでいてわからなかったぐらいだ。
生活には何一つ不満はなかったはずだ。それなのに、それなのに…。一回のセックスで人生が狂ってしまうのか。「容疑者」であり、「性犯罪者」になるのか。世間からは「凶悪な人間」「非道」と見られてしまうのか。
彼の佇まいは、悪人と呼ばれるにはあまりにも凡庸すぎた。それが不気味すぎて、そしてなんだかかわいそうで、見るのもなんだか辛かった。
2件目以降もそんな調子である。大麻及び覚せい剤の件では、本当に真面目そうな青年(23歳)が被告に出てきて正直目ん玉が飛び出そうになった。元々フィリピンと日本のハーフで、フィリピンで在住していた時に大麻や覚せい剤をキメていて、日本に来てからもフィリピンで知り合った知人やtwitter上の密売人から輸入を試みたそうである。
別にヤクザだったりラッパーだったりするわけじゃない。ホントに普通の青年。白いカッターシャツに青のスラックス。高校生で卓球部にいそうな感じだ。それが大麻と覚せい剤の密輸で「犯罪者」。犯行理由は「好奇心から」だそうだ。悪人と呼ぼうにも凡庸。あまりにも凡庸なのだ。
3件目はどうしようもない奴だった。強制わいせつ。24歳ぐらいの坊主の男。野球部に一人はいる、脳筋の、あいさつだけはちゃんとできるから大人からの評判が良くなっちゃってるタイプの奴。あだ名をつけるなら「おにぎりぼうや」って感じの印象だった。顔は丸く、人当たりは良さそうな感じ。ちなみに、どうやらこの事件実名報道されたものらしく、「強制わいせつ 港区マンション」と調べてトップに来るやつがあったらそれです。
もうこいつは本当に恐ろしかった。犯行経緯が「道ですれ違った女性の胸を見て、もみたくなったからついていき、マンションの内部まであとをつけて胸をもんで逃走した」というもの。今日の文明社会において、あきれ返るほどの犯行動機である。しかも泥酔していたわけでもなく、ほぼシラフでこの犯行を行っている。
それでいて、狂人ならまだよかった。恐ろしかったのが、証人質問の際の受け答えが、社会人として立派にハキハキしていることである。
どうもこの方は港区の不動産屋で勤務し、麻布十番にマンションを所有していたようである。ちゃんと仕事でそれなりの成果を上げ、成功を収めたのだろう。限りなく凡庸である。ど、ど、どうしてこんな犯行に至ってしまうんだ…。人として明らかに何かが欠如している。人間に必要な何かが欠けているのに一般社会に生息している。ここに不気味さを感じるのだ。
被告人の母が証人として呼び出され、一人の女性として、そして娘を持つ身として(被告人には姉と妹がいる)被害者に申し訳が立たないと涙を流していた。それを見て被告人は上を向き目に涙を浮かべていた。おいおい、親の涙を見て泣けるような人の心を持っておいて、どうして胸がもみたいと思って見知らぬ女性をマンションまでストーキングして胸をもめてしまうんだよ。どうかしてるよ…。
被害女性は、この事件以降トラウマから睡眠障害になり、被害の瞬間がたびたびフラッシュバックし、家でいても落ち着けない、睡眠不足で仕事にも集中できない日々が続くという。心療内科にも通院しているらしい。
想像力。この行為を行えばこういう結果が待ち受けているだろうという想像力。それが大きく欠如している。言ってしまえば、それだけなのだ。ハキハキ喋れるし、礼儀も正しい。人狼のように昼間は人間と区別がつかない。しかし人の皮の中に眠る狼が、ある時暴走を始める。それはまさに「悪人」の姿なのである。
しかし、人には見えない。わからない。これこそが私の感じた「悪人の不気味な凡庸さ」である。
ドラマやアニメで見る「悪人」は、デフォルメのために外見がTHE 悪人という感じで、視聴者は一見して「こいつが悪役なんだな」と理解できる作りになっている。マスメディアが報じる裁判も、「善」・「悪」のフィルターを通した後、「こいつが容疑者、つまり”悪”ですよ」というパッケージングをされて我々消費者のもとへ届く。
しかし、目の前で見る現実はそうはいかない。
悪人は、その行為をもって社会的に悪人と「化される」のであり、昨日までは一般人として社会に住まうモブキャラだったわけである。
エンタメとして裁判を楽しもうとした私にとっては、このギャップがえぐみをもったリアリティとして眼前に迫ってきて、とてもじゃないが100%エンタメとして消費は出来なかった。現実の不気味さをこの目で見てしまったのである。
私の「凡庸な一日」も、明日には「容疑者が過ごした一日」に変わっているのかもしれない。