ISO感度のオールナイトニッポン

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悪人の不気味な凡庸さ ~裁判傍聴をして~

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昨日は昼夜逆転した生活を送ってしまい、深夜はゲームに明け暮れてしまった。進めるべき伊藤塾の授業も進められなかった。最悪な一日だが、凡庸な一日である。

そんな中迎えた今朝だが、前々から行きたかった裁判の傍聴に行くことにした。

裁判の傍聴に行こうと思ったのは、オードリーの若林が売れない下積み時代によく裁判傍聴に行っていたと聞いたのがきっかけだ。「裁判の傍聴は無料で見れるエンタメ。しかもノンフィクションで、演者はすべて実在の人物」と語っていて、確かにそうだなと思ったのだ。裁判というのは当事者にとっては人生を変えてしまうほど非常に大きな出来事である。それを傍から第三者面して眺めることができる。確かに捉え方によっちゃなかなかに刺激のある「エンタメ」だなと思った。しかもお金かかんないし。

加えて、やはり法律を勉強する身としては何かモチベーションが欲しかった。10代のころ、理科の授業は実験をすればその部分の化学反応はすぐ覚えられたし、旅行で行った史跡の話は歴史の事項と絡めて頭に焼き付いている。そんな感じで、やはり法律も、使われている場面を見て初めて勉強の実感、モチベーションが湧くものだと考えていたから、いつかは行きたいなと思っていた。

実際、裁判内で「不当利得返還請求」とか聞いた時には興奮した。(これ、伊藤塾でやったやつだ!)と進研ゼミ以来の感動を覚えた。習っていることが社会で利用されている場面を見て初めて学問の実感は得られるよなぁとしみじみ思った。

 

しかし、やはりエンタメとしての側面、人間ドラマ模様を見ることが出来たのがとても良い経験になった。結論から言うと、「悪人の不気味な凡庸さ」というものをこの目で観測した。

「悪の凡庸さ」というと、ハンナ=アーレントの概念で、

第二次大戦中に起きたナチスによるユダヤ人迫害のような悪は、根源的・悪魔的なものではなく、思考や判断を停止し外的規範に盲従した人々によって行われた陳腐なものだが、表層的な悪であるからこそ、社会に蔓延し世界を荒廃させうる、という考え方。

デジタル大辞泉』 

 という言葉だが、私が言う「凡庸さ」とは、「思考や判断を停止し外的規範に盲従した」という意味ではない。

ここで私のいう「凡庸さ」とは、「普段一般社会に溶け込んで善良な市民のように振舞っているように見えるさま」をいう。

「悪の凡庸さ」というとやはりアーレントの言葉が第一に出てきて、自分の文脈では完全な誤用になってしまうな~と思いながらも、このワードのすわりが自分の考えていることにピタッと当てはまったので、意味は違えどワード自体を使わせていただくことにした。

私が思った「悪人の不気味な凡庸さ」とは、一言でいうと、「悪人は悪人面をしているわけではなく、善良な一般市民としてそこに存在しており、そのことに対する不気味さ、違和感、気持ち悪さ」のことである。

 

今回自分は、3件の刑事事件を傍聴した。順に、準強制性交、大麻及び覚せい剤取締法違反、強制わいせつである。

 

1件目の準強制性交は、妻子持ち外資系会社員(身なりも成功者っぽい)が、前の会社の同僚と飲んだ後セックスして、向こうから「同意なく性交された」として訴えられた事件。原告と被告で性的同意に係る主張がまるで食い違っており、次の回で審理されるのであろう。

妻がいて、娘が二人いて、外資系のバリバリビジネスマン。顔もイケメンで、ガタイもいい。最初入廷してきたとき、弁護士3人と一緒にスーツ姿で入ってきたのだが、「あれ?被告人は?」となるぐらい弁護士に溶け込んでいてわからなかったぐらいだ。

生活には何一つ不満はなかったはずだ。それなのに、それなのに…。一回のセックスで人生が狂ってしまうのか。「容疑者」であり、「性犯罪者」になるのか。世間からは「凶悪な人間」「非道」と見られてしまうのか。

彼の佇まいは、悪人と呼ばれるにはあまりにも凡庸すぎた。それが不気味すぎて、そしてなんだかかわいそうで、見るのもなんだか辛かった。

 

2件目以降もそんな調子である。大麻及び覚せい剤の件では、本当に真面目そうな青年(23歳)が被告に出てきて正直目ん玉が飛び出そうになった。元々フィリピンと日本のハーフで、フィリピンで在住していた時に大麻覚せい剤をキメていて、日本に来てからもフィリピンで知り合った知人やtwitter上の密売人から輸入を試みたそうである。

別にヤクザだったりラッパーだったりするわけじゃない。ホントに普通の青年。白いカッターシャツに青のスラックス。高校生で卓球部にいそうな感じだ。それが大麻覚せい剤の密輸で「犯罪者」。犯行理由は「好奇心から」だそうだ。悪人と呼ぼうにも凡庸。あまりにも凡庸なのだ。

 

3件目はどうしようもない奴だった。強制わいせつ。24歳ぐらいの坊主の男。野球部に一人はいる、脳筋の、あいさつだけはちゃんとできるから大人からの評判が良くなっちゃってるタイプの奴。あだ名をつけるなら「おにぎりぼうや」って感じの印象だった。顔は丸く、人当たりは良さそうな感じ。ちなみに、どうやらこの事件実名報道されたものらしく、「強制わいせつ 港区マンション」と調べてトップに来るやつがあったらそれです。

もうこいつは本当に恐ろしかった。犯行経緯が「道ですれ違った女性の胸を見て、もみたくなったからついていき、マンションの内部まであとをつけて胸をもんで逃走した」というもの。今日の文明社会において、あきれ返るほどの犯行動機である。しかも泥酔していたわけでもなく、ほぼシラフでこの犯行を行っている。

それでいて、狂人ならまだよかった。恐ろしかったのが、証人質問の際の受け答えが、社会人として立派にハキハキしていることである。

どうもこの方は港区の不動産屋で勤務し、麻布十番にマンションを所有していたようである。ちゃんと仕事でそれなりの成果を上げ、成功を収めたのだろう。限りなく凡庸である。ど、ど、どうしてこんな犯行に至ってしまうんだ…。人として明らかに何かが欠如している。人間に必要な何かが欠けているのに一般社会に生息している。ここに不気味さを感じるのだ。

被告人の母が証人として呼び出され、一人の女性として、そして娘を持つ身として(被告人には姉と妹がいる)被害者に申し訳が立たないと涙を流していた。それを見て被告人は上を向き目に涙を浮かべていた。おいおい、親の涙を見て泣けるような人の心を持っておいて、どうして胸がもみたいと思って見知らぬ女性をマンションまでストーキングして胸をもめてしまうんだよ。どうかしてるよ…。

被害女性は、この事件以降トラウマから睡眠障害になり、被害の瞬間がたびたびフラッシュバックし、家でいても落ち着けない、睡眠不足で仕事にも集中できない日々が続くという。心療内科にも通院しているらしい。

想像力。この行為を行えばこういう結果が待ち受けているだろうという想像力。それが大きく欠如している。言ってしまえば、それだけなのだ。ハキハキ喋れるし、礼儀も正しい。人狼のように昼間は人間と区別がつかない。しかし人の皮の中に眠る狼が、ある時暴走を始める。それはまさに「悪人」の姿なのである。

しかし、人には見えない。わからない。これこそが私の感じた「悪人の不気味な凡庸さ」である。

 

ドラマやアニメで見る「悪人」は、デフォルメのために外見がTHE 悪人という感じで、視聴者は一見して「こいつが悪役なんだな」と理解できる作りになっている。マスメディアが報じる裁判も、「善」・「悪」のフィルターを通した後、「こいつが容疑者、つまり”悪”ですよ」というパッケージングをされて我々消費者のもとへ届く。

しかし、目の前で見る現実はそうはいかない。

悪人は、その行為をもって社会的に悪人と「化される」のであり、昨日までは一般人として社会に住まうモブキャラだったわけである。

エンタメとして裁判を楽しもうとした私にとっては、このギャップがえぐみをもったリアリティとして眼前に迫ってきて、とてもじゃないが100%エンタメとして消費は出来なかった。現実の不気味さをこの目で見てしまったのである。

 

私の「凡庸な一日」も、明日には「容疑者が過ごした一日」に変わっているのかもしれない。